港区の坂 (品川駅~泉岳寺)

 品川駅周辺の坂道と周辺の史跡等を散策しよう。

【柘榴坂 001】
 品川駅高輪口(西口)の向かい側、第一京浜を渡ったところから上って行くのが「柘榴坂(ざくろざか)」だ。
 入り口付近にある坂標には、「坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギに曲がり、明治に直進して新坂と呼んだ」とある。
 交通量も多く、あまり風情のある坂とは言えない。
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 江戸時代には、北側が薩摩藩島津家下屋敷、南側が久留米藩有馬家下屋敷と両側を広大な屋敷に挟まれていた。
 また、坂下南側には「高山稲荷神社」に通じる二百数段の石段が伸びていたというが、同社は境内縮小により現在柘榴坂とは接していない。
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 2014年9月には、浅田次郎原作の『柘榴坂の仇討』(短編集『五郎治殿御始末』所収)が中井貴一主演で映画化された。

 坂の中程に品川税務署があるが、手前の道を入って行くと「高輪森の公園」があり、ちょっとした森林浴を楽しむことができる。
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 坂を上りきったところの左手には「カトリック高輪教会」があり、坂に面した植え込みの中に「キリシタン殉教顕彰碑」が立っている。
 元和9(1623)年12月4日、宣教師を含む信者50名が小伝馬町の牢から 江戸市中を引き回され、東海道沿いの札の辻(田町駅付近)から品川に至る小高い地で、火刑に処せられた。その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々もまきこんで この地で100名近くの人々が処刑されたという。
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 坂の上から北に向かう道が「二本榎通り」は昔の東海道で、近くの寺に大きな二本の榎の木があったことからさの名が付けられたという。
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 二本榎通りをしばらく進むと右手に「高野山東京別院」がある。
 高野山真言宗の寺院で、本尊は弘法大師で、境内には不動堂・修行大師・お砂踏場等がある。
 慶長年間(1596年~1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創され、明暦元(1655年)年に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元(1673)年に高野山江戸在番所高野寺として完成した。
 隣りには、「高輪警察署」がある。
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 高輪警察署前の交差点には「高輪消防署二本榎出張所」がある。
 この消防署の建物は昭和8年に建設された建物で、今は見られない火の見台があり、趣のある建物である。
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【桂坂 002】
 高輪警察署と高輪消防署二本榎出張所の間を第一京浜に向かって下って行く坂が「桂坂(かつらざか)」だ。
 坂標には、「むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう」とある。
 川柳に「品川の客ににんべんあるとなし」がある。人偏のあるのは「侍」、人偏のないのは「寺」を指す。この辺りには寺院が多いので、品川宿(江戸四宿の一つであり、東海道の第一宿で色町としても賑わっていた)通いの不埒を働く僧侶がいたとしてもおかしくはないかもしれない。
 別名「鬘(かつら)坂」、「鰹(かつお)坂」ともいう。
 鰹坂の名は、桂坂が鰹坂に転訛したとされるが、道家剛三郎氏は、「カツラの"ラ"を"ヲ"に読み違えて口伝、筆伝したので魚の坂名にまで変身したのではないか」と推理されている(『東京の坂風情』)。
 野村証券高輪研修センターの周辺にある石垣は高さがあり、そして長い見事な石垣で、この坂の特徴となっている。
 ゆるやかにカーブを描いており、名坂に挙げる人も多い。「タモリのTOKYO坂道美学入門」の中でも取り上げられている。
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 坂の途中には、「東芝山口記念会館」の瀟洒なスパニッシュスタイルの建物がある。
 実業家で三越などの社長であった朝吹常吉氏邸だったもので、学校建築などで有名なW・M・ヴォーリズの設計で、大正14年に建設された。
 サガンの邦訳などで著名な朝吹登水子はここで生まれ育った。
 近くには眠狂四郎で一世を風靡した柴田錬三郎邸もあったという。
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 桂坂の道筋は、江戸時代には一直線ではなく、上部と下部が北に屈曲していたという。
 上部は坂の途中、駿河沼津藩水野出羽守下屋敷の西側(現在信号のあるところ)で北に折れて但馬横町(現高輪台小学校の通り)を通過し、二本榎通りにつながっていた。
 下部は播磨明石藩松平)兵部大輔下屋敷に隣接する高輪北横町(現・高輪二丁目12と13の間)を北に折れ、突きあたりの正覚寺で東に折れて東海道に出ていたという。
 旧道に入って正覚寺に向かう。
 墓地の中央奥に「め組の喧嘩」で知られる辰五郎の墓がある。
 文化2 (1805)年、芝神明社(現・芝大神宮)で行なわれた勧進相撲の際、町火消「め組」と相撲取りとの間でいざこざが起こったのだ。この事件は芝居『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』に脚色され、大きな話題になった。
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 正覚寺を出て左折し、左手に見えてくる石段を上ると高輪神社の境内に入る。境内には、芝伊皿子町・仁右衛門や芝田町・岩右ヱ門などから寄進された力石が置かれている。
 同社は、明応年間(1492年~1501年)に稲荷神社として創建され、昭和4年に高輪神社に改称された。主祭神は 宇迦御魂神(稲荷大神)で、相殿に誉田別命(応神天皇)、猿田彦神 を祀っている。
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 第一京浜に出、南側の桂坂の入口に向かう。
 入口の傍らに「高輪海岸の石垣石」が置かれている。
 江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣で、相模湾岸から伊豆半島周辺で採掘された安山岩が使われたという。
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 今度は、桂坂を下から上がって行く。
 少し歩くと、右側に日本舞踊の「二代目西崎緑舞踊研究所」があった。
 二代目西崎緑は、初代西崎緑の創作舞踊に魅せられて西崎流に入門。初代没後、二代目を襲名した。
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【洞坂 003】
 更に少し上がり、先ほど通った「東芝山口記念会館」の横の道を入って行くと「洞坂(ほらざか)」に出る。
 この坂は、幅がが2メートルほどの狭い坂で、かなり急勾配で大きく湾曲している。
 坂標には、「法螺坂、鯔坂とも書く。この辺の字(あざ)を洞村(ほらむら)といった。洞村とは、昔はほら貝が出たとも、またくぼ地だから洞という等様々な説がある」とある。
 「鯔(鰡)坂」という坂名は、洞坂の転訛である。
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 坂をくだったところに「東禅寺(とうぜんじ)」がある。
 東禅寺は臨済宗妙心寺派の禅寺だが、幕末最初の駐日英公使オールコックがこの寺を宿舎にしている。騒然とした世情のなか、擁夷派の水戸浪士に襲撃されて死傷者をだすという血生臭い事件も起きている。
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 洞坂の位置については異説もある。
 東禅寺の山門前を左側の道に進むと、墓地の手前を右に上がって行く細い坂道がある。さらに進んでいくと民家の間を通り、やがて階段があり、これを上っていくと桂坂に出る。この道筋を洞坂とする説だ。
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 坂上の高輪消防署二本榎出張所がある交差点まで戻る。
 道の向い側に「高輪一丁目緑地」があり、大きな榎の木があり、「二本榎の由来」の石碑が建てられている。
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 二本榎通りを「天神坂」方面に向かって北に進む。
 「高輪銭洗不動」が祀られる曹洞宗の寺院「黄梅院」に続いて、浄土宗の寺院「松光寺」がある。
 同寺は、上山松平家と細川家の江戸菩提寺で、その墓地には松平日向守信之の室・松光院の巨大な墓や、その左手に、触ると祟るといわれるタタリ仏、六地蔵などがある。
 明治維新の初めには、鉄道建設のために来日した英国人技師の宿舎にもなった。
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 松光寺を出て通りの反対側に渡り、「承教寺(じょうきょうじ)を訪ねる。
 入口には「二本榎の碑」と、町会が立てた案内板が立っている。
 境内には入ると、本殿の左側に、江戸時代中期の画家・英一蝶の墓がある。
 版画の作品はないが肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残している。生類憐れみの令に対する違反により、三宅島へ流罪となった間に書かれた風俗画(「四季日待図巻」「吉原風俗図巻」「布晒舞図」「松風村雨図」)は、画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、わが身を省みて心情を託して描かれた作品として、一蝶の代表作のひとつとして知られる。
 墓石には辞世の句「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空」が刻まれている。
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【天神坂 004】
 更に進んで、「東海大学・高輪台高校」の前の和菓子屋「とらや」の横の道を入って行くと、「天神坂(てんじんざか)」の上に出る。
 坂標には、「むかし坂の南側に菅原道真の祠(ほこら)があったためという。葭原が見えるので葭見(よしみ)坂、吉見坂ともいったという説もあるが北方の坂か」とある。
 比較的短い坂で、坂上から急な坂をおりていくと、坂下が桜田通りになり、交差点の向い側には「覚林寺・清正公堂」がある。
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 坂の途中左手に浄土宗の寺院「光台院」がある。
 光台院の境内には「親子地蔵」と呼ばれる「子抱地蔵」を含めた四体の石地蔵がある。
 これは明治時代に二本榎の五人殺しといわれた凶悪事件があり、金槌で殴り殺された一家五人の冥福を祈るために、周辺の町内の有志により明治43年に建立されたものだという。
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 道の反対側に「古寿老稲荷神社」がある。宇賀御魂命を祀る。創建年代は不詳だが、延宝6(1678)年頃麻布飯倉片町の付近より当地へ遷座したという。
 江戸時代には小女郎(こじょろう)稲荷と称されていたといいい、『御府内備考』には、「右に剣左に宝珠持、白狐に乗れる女之姿に相見え、里俗小女郎稲荷と唱来、弘法大師の作と申伝候」とあるそうだ。
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【葭見坂 005】
 天神坂を下り、桜田通りと並行する細い道を右に入り、1本目を右折すると、家並みに沿って屈折して上る坂がある。「葭見坂(よしみざか)」である。「吉見坂」とも表記される。
 かつて、この辺り一面は葭が生え茂っており、坂から葭原が見渡せたことからこの名が付けられたという。
 坂下一帯は、かつて「樹木谷」と呼ばれた。高輪台と白金台の間にある窪地で、元は刑場があったところで、地獄谷の名称を樹木谷に改めたと伝えられる。
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 葭見坂を上り、高松中学の正門を通り過ぎて、左側の高松児童遊園の中を横切り、都営高輪一丁目アパートの敷地に入っていくと、やがて左手に「大石良雄(よしたか)外十六人忠烈の跡」が見えてくる。
 この地は江戸時代、肥後熊本藩細川越中守の広大な中屋敷だった。赤穂浪士のうち、大石内蔵助良雄ら17人が預けられ、元禄16(1703)年2月4日に切腹したところだ。
 四十七士のうち46人は細川家、岡崎藩・水野家、松山藩・松平家、長府藩・毛利家に分けて預けられ、そこで切腹をするが、受け入れた各藩によって浪士への対応に差が出たようで、特に細川家では鄭重に取り扱われたという。
 こんな狂歌が残されている。
 「細川の水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」
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 「忠烈の跡」の先の通りを左折すると、高輪支所の手前に椎の巨木が立っている。
 旧細川邸にあった椎の木で、都内の巨木の中でも第9位、東京23区では第4位だという。
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 二本榎通りに出て左折すると、左側に高松宮邸があるが、ここも旧細川邸内にあたる。
 道を渡って保安寺前を過ぎ、次を左折して正源寺に入る小道を下っていく。
 正源寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、明暦2(1656)年にこの地に移転してきた。
 山野勝氏の『江戸と東京の坂』によれば、墓地には、日本画家の川端玉章・玉雪や面師(能の面打ち)・出目元休の墓、明人・王三官の一風変わった墓石があるというが、門が閉ざされていて確認することはできなかった。
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 さらに何度も曲折しながら小道を下っていくと、途中、民家の軒先に井戸の手押しポンプがあった。懐かしい光景である。
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 そのまま高輪学園の間を抜けて進むと、ほどなく泉岳寺の門前に出る。
 泉岳寺は曹洞宗の寺院で、慶長17 (1612) 年、溜池の南側(麻布霊南坂辺り)に開かれ、寛永18 (1641) 年に類焼してこの地に移ってきた。再建に際しては、播磨赤穂藩浅野家が尽力し、浅野家の菩提寺となった。
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 境内には、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩とその正室・瑤泉院の墓とともに、「赤穂義士の墓」がある。義士の墓は、討入りののち預けられた大名家ごとに並べられている。
 また、墓地の門の手前には、吉良上野介の首を洗ったという「首洗い井戸」もある。
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